OOO-18 '48の魅力とは‥‥
Martin OOO-18 (1948年製)が我が家にやってきたのは、今から5~6年程前。
質屋さんから「ジャンク品」として出品されていた物をオークションで落札したのだ。
送られて来たギターは、まさにボロボロ、見るも無惨な姿であった。
ピックガードはまるで古くひび割れた革のようにヌメヌメした色でめくれ上がっている。
フレットが割れて、バインディングが取れかけている。
塗装は乾燥し過ぎで、触れるだけでポロポロと剥がれ落ちる。
C.F.Martinのロゴも剥がれてしまって見えにくい。
トップ(表板)の塗装は溶けてボディ下方向に垂れているかのよう‥‥(これは後に別の現象であることが判明する)
サイドはどこかに思いっきりぶつけたのであろう、10cm程割れてぼっこりと凹んでいた。
ブレーシングがいくつも剥がれ、Tバーのネックは弦の張力で反り、弦髙がとても高い。
フレット替えを何度も行ってきたのであろう、ハカランダ指板は薄くなっていた。
しかし、不思議なことにこれほどボロボロなのに、トップは全く割れてなかった。
そして異常な程カラカラに乾いたボディからは、想像が出来ないとてもとても甘いメロディーがこぼれ出た。
このまま骨董博物館行きも良かろう。
しかし僕はプレイヤーだ。
このままでは演奏する気にはなれないし、下手するとどこかで損壊してしまうかもしれないと思った。
早速、いつもお世話になっている浜松市にお住まいの「鳥居」さんの修理工房「大鳥楽器」にオーバーホールを依頼した。
お願いしたことは、「プレイヤビリティーを向上させ、ヴィンテージの風格はそのままに日本の気候に耐えられるように仕上げて下さい」とだけ。
鳥居さんの検証の結果、行った修理は‥‥
・指板を剥がし、オリジナルの「Tバー」を取り出し、一旦逆反りさせて元に戻す。
・指板はローズウッドの薄板を下側に貼って底上げ。
・ネック、ヘッドも含め、ボディ全ての塗装を薄く薄く剥がした後に、薄くオーバースプレーを施す。・側面の割れは中から押し出して補修。
・ブレーシングの剥がれ補修。
・ピックガードに熱を掛けて出来る限りフラットに。
・ナットの象牙化。
・ブリッジは取り替えられてノーマルサドルだったため、オリジナルと同じロングサドル仕様へと溝を変更し、サドルは象牙化。
・フレット打ち替え。
数ヶ月後に戻ってきた時の、こいつの楽器としての変貌ぶりには目を見張った。
塗装もしっかりとしているのに、ヴィンテージの風格は色あせてはいなかった。
「歳を重ねて気品を増したおばあちゃん」と言った雰囲気。
この辺が、リペアの魔術師・鳥居さんの鳥居さんたる所以なのだ。
更に入手当初、「塗装が溶けて垂れている」と思い込んでいたのは、綺麗になった今よく観てみると‥‥。
トップ全面に現れたものすごい「ベアクロウ」であることが判明。
「ベアクロウ」とは‥‥。熊が爪で引っ掻いたように見える杢目のこと。
樹木が生長する際に、横風の影響を受けたりして重量を支えようと踏ん張ってる部分に集中して出来るシワであると言われている。
本来このような材は、見た目が良くないという理由で敬遠された。
「アテ」と呼ばれて嫌われ、楽器用としてはもちろん、家具用としても切り捨てられてきた部分らしい。
65年も前、今と違って木材が大量に有った時代にだ。
しかも世界最高のギター材を原木で保有するMartin社が、何故わざわざこの材を主力楽器に使用したのであろうか。
製作者が何らかの目的を持った上で、この材を選んで使用したのではないか‥‥。例えば、意図する音作りのために試験的に使用してみた等。
僕にはそうとしか思えないのである。
さて、木材としてはいわゆる目が詰まった部分のため、非常に堅く丈夫でもある。
ギター材としては、天然の「ブレーシング」=「力木ともいう。補強と音質調整の役目を兼ねたギター内部の木組み」と言え、割れに対する強度が高い。
音質的にも堅めで、サスティーンの伸びる材と言われている。
現に、このギターが手元に来たときの話。
激しいピッキングによりボディ表面が削れていたのだが、ベアクロウ部分だけが削れてなかった。
いかにベアクロウ部が堅いかが分かるエピソードだ。
じつは、Martin社の最高級器「D-50」は全面ベアクロウだし、今週末に別府でライブを行う「石川鷹彦」さんのYAMAHA製のTakaモデルもそうだ。
いまでこそ貴重な材として見直され、高級材として位置づけられた全面ベアクロウモデルが今ここにある。
全ては時代の流れであり、価値観は変化する。
何とも面白いものだ‥‥と僕は思った。
しかし、このような大規模な修理後の常だが、鳴りは静まってしまった。
さて、それから数ヶ月、部屋弾きしている間に再び鳴るようになってきた。
そんなある日、ミュージシャンの「原口純子」さんと食事をする機会を得て、この「OOO-18」を余興に持って行ったはっちゃん。
この時、純子さんにとって、余程印象が強かったのであろう。
後日、再び彼女のOAをすることになった際、「はっちゃん、あのOOO-18をもう一回弾かせて」と直接電話が掛かって来た。
あの後、純子さんはツアーで各地を周りつつ、機会があれば楽器店に寄ってはOOO-18を弾かせてもらってたらしい。
でも、自分の中では、「あの耳に残った音が忘れられなかった、あれ以上の音に出会わなかった。だからもう一回弾かせて」‥‥と。
しかるに、純子さんはそのライブでこのOOO-18を使って1曲演奏してくれた。
その辺りの経緯は、下記URLの記事に書かれているのでお暇なときにどうぞ。
http://acoraku.way-nifty.com/blog/2011/12/kulo-in-ooo-20d.html
改めて、彼女にとってのこのギターの魅力を再認識したようで、どうしても手に入れたいようだった。
そうは言っても貴重な物には変わりは無く、修理にもそれ相応の費用が掛かっている。
いくら純子さんでも、さすがに差しあげると言うわけにはいかない。
色んなリスクを考え、数ヶ月間悩んで悩んだあげく、結局僕はそのギターを「1年間限定」で無償貸与することにした。
去年の3月、中津ビリケンクラブでのことだ。
このOOO-18を使って唄う純子さんの演奏が、ステージからシャワーのように降ってくるかように聞こえた。
http://acoraku.way-nifty.com/blog/2012/03/in-d2ec.html
その時僕は思った。
多くの人たちを楽しませる楽器としてプロのツアーに連れて行ってもらうのも、このギターにとっても幸せなことなのだろうと。
そして、OOO-18は純子さんと旅に出た‥‥。
それから1年を経て、今年4月初旬。
OOO-18は約束通り僕の手元に戻ってきた。
純子さん用に低くセットされていた弦髙を戻すため、自ら象牙サドルを作り直したが、その他は元のままだった。
あの時、もしものために誓約書を戴くことも考えたがそれは止めた。
今までの「KULOとの信頼」を担保にそのまま貸与したわけで、正直不安はあったわけだが、無事に返ってきた現物を見てそれも取り越し苦労だったことが分かった。
この1年間、純子さんは丁寧に大切に使ってくれてたようだ。
それは見たらすぐに分かった。
「お前は幸せなギターだな」、と僕はつぶやいた。
遠く米国の地で生まれ、幾人か幾十人かは知らぬが、おそらく多くのミュージシャンの手によって育てられ。
いつしか日本に渡って弾かれていくうちに、どこかで忘れ去られ、とうとう終いにはボロボロの姿で質屋に持ち込まれたギター。
それが僕の手に渡ったことで、超一流のプロリペアマンの手によって蘇り、今部屋のギタースタンドに立って出番を待っている。
まさに、「縁は異なもの味なもの」‥‥。
じつはまだピックアップを仕込む気持ちにはなかなかなれない。こいつは生音が良いのだ。
かの「上田正樹」が中津でライブした際、打ち上げでは最初静かだったのだが、このギターを持った途端、ノリノリで歌い始めた。
楽器とは本来、そういう人の心をかき立てる存在なのだ。
いつも僕が、「おばあちゃん」と親しみを込めて呼んでいる「1948年製のOOO-18 」。
僕にとっては、「永い時の流れが育んだ、味のある音色」で話しかけてくれる「大切な家族」のようなものである。
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