至高と至福の狭間で‥‥
「ギター増殖病」というやっかいな病に侵されてしまっている事を自覚している。 何とかこれを克服したいという気持ちはある‥‥しかし、なかなかそうは問屋が卸さないもので、小遣いが貯まる頃になるとムズムズ‥ムズムズ‥‥つい1本増えてしまう。
「ギター増殖病」とは、ギターが大好きで、それを追い求める余りギターが増殖するという恐ろしい病(^^ゞ
数日前、出張の帰り道の出来事である。
数時間ではあるが、楽器店のメッカである東京「お茶の水」の街をうろついた。
(そもそも東京で時間が取れた時、ここをうろつくのがいけないのだが‥‥)
某中古楽器店にて、奥の壁の中央に、これまた大切そうに掛けられていた一番高価そうな(一番弾いてみたい)ギターを弾かせて戴いた。
こういうシチュエーションじゃないと、まず弾くのは無理ですから(^^ゞ
・Martin D-45 1968年製 450万円也
・Martin D-18 1936年製 250万円也
(※写真の掲載については御迷惑をかけるといけませんので、あえてセピア色加工を施しています)
まさしく「至高のギター」である。
勿論買えるはずもないのだが、値段だけ見て、アコギ世界の奥深さを思い知らされた‥‥(T_T)
もちろん、どちらのギターも思わず涙が溢れる程に素晴らしい響き‥‥甘く、ふくよかで、艶があって、長く続く余韻が身体に染み渡る感覚がたまらない。
どちらのギターも色は焼け、塗装は剥がれ、表板はゆがみ、ハッキリ言って汚い‥‥と、世の女性達はきっと思うに違いない。
「こんな汚いガラクタに、数百万円出す男共の気がしれない」‥‥と。
男は確かに馬鹿な動物であるが、それがちょっと違うんだなあ。
僕らは時代に揉まれたそんなギター達が愛おしく、まるで後光が差しているように、めちゃくちゃ輝いて見えるから何とも不思議だ。
今や楽器の製作は機械化され、出来うる限り簡略化・合理化され、貴重な樹木はただ浪費されるばかりで、音の命は何処かに消え去ったに等しい。
その昔、本物のギター職人達は、自ら選びに選び抜いた材料を使用し、1本のギターにその魂と情熱を込め、命を授け、手にしたアーティストはそれを高みへと成熟させ、昇華させていった。(現在もそのような本物の職人は、多く存在するから誤解無きよう)
「手工ギター」と呼ばれる「人の手だけで生まれるギター」は、多くの歳月を掛け弾き込まれる事で、その魂が深く深くボディへと浸透し、刻み込まれていった。
だから、アコースティックギターの素晴らしさは、その長い成熟の期間(歴史)にこそあると言えよう。
よく考えれば、そんな「至高のギター」の響きが、安価に手に入れられるはずもないのである。
そうして、古き良き時代の楽器を求める人々は、「本物のヴィンテージ楽器」を血眼で探し続け、そしてその値段は否応なしにつり上がっていくのである。
では、「至福のギター」とは何ぞや?
値段ではない!
1本、1本のギターに対する人それぞれの「思い入れ」や「歴史」である。
だからこそ、「ギターは面白い!」と思うのである。
「あ~あ」‥‥と、ため息をつく僕はまだまだ、「至高のギター」と「至福のギター」との狭間で、苦悩し続けるに違いない‥‥。
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